山本淳子さんの本『道長ものがたり』を読んだ。平安時代の栄華を極めた藤原道長の印象が、ガラリと変わった。
道長の複数の「顔」
平安文学作品を並べて読んでいくと、彼の複数の「顔」が見えてくる。
『枕草子』では、権力を振りかざす意地悪な男のようであったから、私は道長が苦手だった。
でも『大鏡』では、神格化された政治家。道長本人が書いたとされる『御堂関白記』では、疲れ果てた中年男のお仕事日記にも思える。
そのギャップを「別々の人物像」として切り分けるのではなく、「全部道長だったんだ」と思えた瞬間に、歴史上の人物がぐっと身近に感じる。
道長に近い人ほど、彼の人間らしい一面を描く。道長に遠い人ほど神格化しやすい。私たちが、芸能人を「完璧な人」と思い込んでしまうのと似ているのかも。
『道長ものがたり』では、道長の心に触れる。彼は平安文学によく登場するのに、彼の心情を描いたものはほとんどない。だから私は、この『道長ものがたり』に惹かれた。芸能人の裏側を見たい野次馬根性みたい。
「強運」は人の不幸で成り立った
道長は「幸ひ」の人と呼ばれている。平安時代の言葉で、「強運」と呼ぶ。
富、権力、結婚、家族や長寿などすべてを手に入れたのが道長だ。だけどその「幸い」は、多くの人の不幸を踏み台にしての道だった。
兄たちが相次いで死に、若くして頂点になった道長。ライバルも蹴落とし、娘たちは天皇の后になって、道長は出世していく。
私の好きなエピソード
中でも彼の人間臭いエピソードは、奥さんに頭が上がらないところだ。
道長はある時、家族の前で「私は娘にとっていい父親だろう。そして妻も、私が夫で良かったと思っているに違いない。」みたいな和歌を詠んだ。
奥さんはプイっとして、自室にこもってしまったのだ。それを見た道長は、慌てて妻を追いかけたらしい。いつの時代も、夫が妻の機嫌を損ねるのはマズイらしい。
「幸いの人」も、すべてがうまくいったわけではない。
道長は持病や政治に悩まされて、辞表を出したことがあるそうだ。それでも天皇には「ちょっと休暇を取れば、考えも変わるのでは?」と、やんわり却下。
道長は「この繁栄は父と祖父のおかげであって、私は何も優れてないんですよ」みたいなことを辞表に書いたそう。辞めたいのが切実すぎる。結局、しばらく休暇をもらっただけで終わった。
その間も天皇の使いの者に出社を促されると、「まだ腰が痛いから無理」と断っていたそうな。
道長は子供たちのことも大事にしていた。彼の娘が、天皇家に嫁いだときは手紙やプレゼントを送っていた。道長は、子供たちも男子女子問わず、地位を極めることが彼ら・彼女たちのためと思った。
それが仇となり、死にかけの娘に恨み言を言われるのだ。「あなたが私たちを利用したから、私は死ぬ運命になったんだ。全部、あなたのせいだ。」
正しいと思っていたことが間違っていた。それが分かった時の衝撃とショックは計り知れないものだ。道長はその後持病が悪化し、何日も痛みに苦しんで死んだそうだ。
キラキラしている人にも悩みはある
カリスマは、裏側でもがいていた。
道長はこうしていろんな表情をして、文学の中で生きている。彼がそれを望んだかは知らないが、人によって、立場によって、見える姿は違う。
現代のSNSでキラキラ見える人も、富や地位もある芸能人たちも、見えないところで苦しんで大きな悩みを抱えているかもしれない。
良いところだけ見て、あの人たちは「恵まれている」と決めつけたり、自分は何も持っていないと比べて落ち込む必要はない。
みんなそれぞれに悩みがあって、もがいて、それでも頑張って生きている。人の心は複雑だ。自分の嫌な部分を消すことに必死になるから、みんな何者かになろうとするんだろうな。
歴史上の人物も遠い存在ではなく、血の通った人間として生きていたことが実感できる。
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