深谷忠記の小説『毒 Poison』を読んで、自身の体験と照らし合わせて書いたエッセイ。
小説の舞台は病院。物語は、DV夫が殺された事件を中心に展開していく。
この物語は、人間そのものの「毒」が描かれる。暴力をふるう夫、その暴力を受け入れてしまう妻、どうにかしたい子供たち。
DV男が最低なのは当然として、私が一番「毒」だと思ったのは母親だった。
母親は経済力がないこと、世間体を理由に離婚せず、「子供のために」暴力を受け入れる。けれどその選択の結果、子供が父親を殺そうと決意するのだ。
私はこの母親に強い怒りを覚えた。というのも、私も同じような母親(継母)に育てられたからだ。
継母の口癖は「私さえ我慢すれば」だ。しかし現実は何も改善せず、むしろ悪化していった。彼女の顔や体は、常に痣だらけ。弟は父を激しく嫌悪し、妹は家に寄り付かなくなり、私は両親の板挟み。
離婚を勧めても「子供を養えない。離婚したらあの子たちが可哀想」と繰り返すばかり。ここでいう”あの子たち”は、継母の実子である弟と妹のことだ。
少なくとも、継母も小説の母親も、自分のことしか考えていない。「子供のため」と言いながら、実際には自分が苦労してDV男から逃れることはしたくない。暴力を受け入れている方が都合がいいのだ。
結果、子供はしんどい思いをする。兄弟を守るために親代わりをし、母を支えるために暴力に立ち向かわされる。
「子供のため」という言葉は、思いやりに見えて実は重荷だ。やがて「自分がいるから母は自由になれない」という子供の自己否定に変わっていく。
母親は子供を守るつもりでも、実際にはじわじわと毒を注ぎ込んでいるのと変わらない。
本当に子供のためを思うなら、暴力をふるう男から離れ、行政や人を頼ってでも自立すべきだった。
毒は時に薬にもなるが、ただ流し込み続ければ人を蝕む。毒を長く吸収すれば、解毒するにも時間と根気が必要だ。
私が実家と絶縁してから10年。今も日常の些細なことで、辛い記憶が蘇ることもある。それでも、夫や周囲の人々の温かさに支えられ、安心できる場所があるから、少しずつ解毒を続けられている。
親子に限らず、「君のため」と言うのはなるべく控えたい。たいていその言葉は、それを言う人自身の都合で使われることが多いからだ。
本当に誰かのためなら、言葉ではなく行動で示すものだと思う。
言葉で示されても、それに従った結果、自分の状況が本当に良くなったときにだけ、「君のため」を信頼したい。
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