思い出に結論やまとめもつけず、ただの記録として家族のことを振り返ってみる。
私には父、実母、継母、兄1、兄2、兄3、妹と弟がいる。
今日は兄1の「二イ君」の話を書く。
※本文には、暴言や差別的な発言が含まれます。あくまで筆者の体験であり、特定の人物を攻撃する意図はありません。
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二イ君は自閉症か知的障害のどちらかを診断されたけれど、私はあまり覚えていない。
彼と私の年齢は親子ほど離れている。二イ君はずっと祖母と暮らしていて、定期的に家族で会いに行った。
二イ君は、よく笑う人だった。
会いに行くと、彼の好きなババ抜きをする。私、妹、弟が参加する。
誰かが二イ君の手札からババを引くと、「ぐふぅ」と鼻を鳴らして笑い出す。私がわざとジョーカーを見せて「ババ〜」と言うと、彼は「ハッハッハ」とお腹を抱えて床に倒れ込んだ。何がそんなに面白いのかは分からない。でも、その様子につられて、みんな笑ってしまう。小学生が「うんち」と言って盛り上がる感じに、少し似ている。
二イ君が自閉症と診断されたのは、今から20年前、彼が中年に差し掛かる頃だった。
知能は7歳くらいだと聞いた。その頃の私は中学生だったと思う。体は大きな大人なのに、頭脳は自分より年下だと知って、不思議な気持ちになった。ただ、診断がついたこと自体は良かったと思っている。
当時は障害があることは恥だ、面倒だ、という空気が家の中にも外にもあった。父も祖母も、二イ君が周りと少し違うことに気づきながら、見て見ぬふりをした。
その結果、二イ君は支援や十分な教育を受けないまま社会に出た。
仕事は長く続かず、そのたびに父は彼を叱った。「なぜ、みんなと同じことができないんだ」と。私も当時は、正直、恥ずかしいと思っていた。どうしてこんなに違うんだろう、と。
でも自閉症だと分かってからは、支援を受け、二イ君にできることを家族で探すようになった。
祖母が介護施設に入ってから、二イ君は一時的に我が家で暮らすことになった。
私、妹、弟は、彼を末っ子みたいに思っていた。一緒にババ抜きをして、テレビを見て、お菓子を買いに行く。できることとできないことを見守り、手を貸した。二イ君は、我が家でもよく笑っていた。愛嬌があって、可愛らしい人だった。
父は、彼を受け入れられなかった。二イ君の症状そのものというより、障害のある子が自分の家にいることが許せなかったのだと思う。男は強くあるべき、障害は恥、そういう考えを持つ人だった。
二イ君がコップの水をこぼす。洗濯物がうまく畳めない。それだけで父は怒鳴った。兄弟でババ抜きをしているだけでも彼に対して、耳を塞ぎたくなる罵声を浴びせた。
毎日、何度も。
父を怒っても、諭しても、やむことはなかった。聞いているうちに、私たちまで生きるのがしんどくなっていった。
三ヶ月ほど経った頃、二イ君は笑わなくなった。
落ち着きがなくなり、突然叫んだり、泣き出したりするようになった。大人の男性が力いっぱい暴れるのを、女三人と中学生の弟でなだめるのは大変だった。私たちは毎日、体のどこかに痣を作った。
父は「お前らが、あいつを甘やかすからや」と言った。責任をこちらに押しつけるのが、父のやり方だ。私たちが学校に行っている間は、継母ひとりで対応していた。彼女は目に見えて痩せていった。
ある日、父の本音を聞いた。食卓で、いつものように父が二イ君を怒鳴っていたときのことだ。
「お前をここに置いてんのは、支援金目当てや。じゃないと引き取るわけないやろ!」
その場にいた家族全員、言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
限界だった。二イ君は施設に入った。
父と私たちの関係は、二イ君が来る前から良くはなかったが、そこからさらに悪化した。家の中は常にピリピリ。
父は昔は、本当に「良い父」だった。それが、いつからお金のことばかり口にするようになり、気がすまないと暴力を振るって、人の気持ちが見えなくなったのか、今でも分からない。
それから数年も経たないうちに両親は離婚した。
その後の家族の行方、生死も分からない。二イ君にも、あれ以来会っていない。これから先も、私は家族の誰とも会う気はない。
それでも、二イ君がどこかで少しでも穏やかに過ごしていたらいいな、と思う。
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