善意の差別は悪意より難しい

2025/08/15

エッセイ

国を問わず、どこにでもある「善意の差別」。私自身の経験から見えてきた『善意の差別』の向き合い方について、考えをまとめた。

「善意の差別」の難しさ

差別には「善意」から来るものもあって、時に悪意よりも対応に困る。言う側は、褒め言葉だと信じている場合もある。

相手に悪意がないと分かっていても、言われた側にはモヤモヤが残る。そのモヤモヤの伝え方も難しい。「善意」と言われてしまえば、反論するのは失礼に思えて、飲み込むしかない。

立場を想像できても、その人にはなれない

私が苦手なのは、「良い人間でありたい」という気持ちが、いつの間にか自己満足で終わってしまうことだ。

「私はマイノリティの友達がいるから、彼らの気持ちがわかる」
「自分は差別をしない人間だ」

というふうに、当事者よりも大きな声で語る人もいる。(私の個人的な感覚)。

私は、誰かの体験や気持ちに共感することはできても、その人の体験を完全に理解することは難しいと思う。同じ経験をしても、感じ方や状況は人によって全く異なる。

もちろん、誰かを擁護しようとする気持ちは大事だ。でも、いつの間にか、「弱い立場の味方である自分」に酔っていないか考えなきゃいけない。

安全圏からの発言

こうした発言の背景には、「自分はその立場にならない」という前提があるのかもしれない。自分がマジョリティだからこそ、安全圏から発言できる、という構図だ。

けれど、本当に自分がその立場にならないと言えるだろうか。

学校や職場の仲間はずれも、ある日突然起こる。自分は安全圏にいたはずなのに、立場が変わることもある。その可能性を考えて、行動したい。

今も引っかかる善意の「言葉」

差別はあらゆるところにある。善意、悪意、無知、無意識など種類も様々。

カナダでは日本語を「変な言語」とからかわれたり、「英語が上手ね〜」と子供の絵を褒めるような口調で言われたり。「日本人と友達になれてよかった」と言われたこともある。

どれも悪意はなかったのかもしれない。それでも、小さなひっかかりは今も心に残る。

そして思い返せば、私も英語圏の人に「お箸を持つの上手!」と言ったことがある。相手を褒めたつもりでも、無意識に「私たちは違う」という境界を作ったかも。

SNSの”流行り”の風潮に違和感

SNSで、差別を“流行り”のように扱う風潮に疑問を感じる。一時はネットで熱く語っても、ニュースが過ぎれば話題にしなくなる場合も多い。

本気で弱い立場の人を守る覚悟が伴わない言葉は、自己満足で終わることも多いのでは?

私は活動家ではなく、デモに参加しているわけでもない。そこまでの覚悟が自分にないことは分かっている。だから、こうしてブログに書くことで、自分の考えを整理している。

さいご:差別との向き合い方

差別や偏見は、多分なくならない。悪いものだと分かっていても、完全にやめられないのが人間だ。だから大事なのは、差別をゼロにすることではなく、社会全体でどう向き合い、共存していくかだと思う。

無意識のうちに、私も誰かを差別しているかもしれない。だからこそ、言葉選びに気をつけ、一歩引いて周囲や自分を見つめる時間を持ちたい。その積み重ねで、ようやく相手の立場を考えることに近づけるのだと思う。

📕関連記事

国籍で人を決めつけていた私が受けた・やった無意識の差別。この二つから、「違いに優劣をつけた瞬間、それは差別になる」と実感した。

誰にでも起こりうる無意識の偏見。

『区別』と『差別』の違いを、カナダで教わった

トピック

自己紹介

自分の写真
好きなもの❤編み物、スターデューバレー、あつ森、モブサイコ100、古典、旦那さん、美味しいもの

QooQ